いつも疑問に思うことがある誰もが「日本」や「日本経済」を問題にすると、それはどうしてなのだろう、ということだ。テレビの討論番組などでも、雑誌や新聞の特集でも、問題とされ、議論の中心となるのはたいてい「日本」だ。日本はどうすればいいのか、日本は元気になるために何が必要なのか、日本経済の再生のためには何が足りないのか……。

 日本は変わらなければならない、というようなことを言う人を見るたびに、「どうやって変えると言うんだ、そんなことを言う前にお前が変われ」と思う。活力やビジョン(注1を失っているのは、一人一人の個別の人間であり、企業であり、自治体や地域ではないのか。たとえばわたしの故郷の佐世保市や長崎県は、七〇年代から続く造船不況の影響もあって、帰郷するたびに寂れていくのがわかる。

 だが、「佐世保市や長崎県の経済をどうやって再生するのか」とは誰も問わない。造船業をどうやって再生するかという議論も見たことがない。個別の企業、たとえばダイエーのように巨大な有利子負債を抱えた企業をどうやって再生すればいいのか、答えを示すエコノミスト(注2)はいない。産業の問題だけではない。たとえば教育でも、荒廃しきっている個別の学校やクラスのことは具体的に問題になることがない。ナイフを出して向かってくる児童生徒に対しては自衛のための暴力が許されるのかどうか、そういった議論もない。

 「日本」の問題は解決すれば、個人の問題も、個別の企業の問題も、個別の自治体の問題も解決するのだろうか。長崎県やダイエーの経済的再生よりも、「日本」の経済的再生のほうが簡単のだろうか。

 最近わたしは、「日本全体」のソリューション(注3)について議論する人たちが胡散臭く(注4)思えるようになってしまった。個人や、個別の企業や自治体についてのソリューションを口にすれば、何らかの形での「責任」が発生する。だが、日本のこと、日本経済のことは、いくら批判したり提言したりしても、責任を取る必要がないのである。

 

(注1)   ビジョン:将来への計画

(注2)   エコノミスト:経済の評論や分析の専門家

(注3)   ソリューション:解決方法

(注4)   胡散(うさん)臭い:あやしくて信用できない

 

1 筆者によると誰もが「日本」や「日本経済」を問題にするのはなぜか。

1 これが解決すれば個別の問題も解決するから

2 発信に責任を取らなくてもいいから

3 この問題のほうが簡単に解決するから

4 誰にも責任のある重大な問題から

 

2 お前とはだれのこと。

1 テレビの視聴者や、新聞、雑誌の読者

2 話を聞いている筆者

3 日本全体についての意見を述べる人

4 元気をなくした一人一人の個別の人間

 

3 筆者がこの文章で一番言いたいことはどんなことか。

1 日本全体を議論しても、具体的な個別の問題は解決しないのだから、そんな議論をするのは無責任だ。

2 個別の問題についてひとつひとつ解決しても日本全体はよくならないが、日本全体についてもっと真剣に議論すべきだ。

3 日本全体が変われば、自動的に個別の問題も解決していくのだから、人々は責任を持って批判や手遺言を行うべきだ。

4 日本全体について議論することは大きな責任をともなうが、日本経済のことについては、誰も責任を取る必要はない。